本当の現代音楽 (=現在音楽) を伝える、ということ。
それはつまりリアルタイム性の追求であり、現代という時代性に合一した音楽の選択、 パッケージ作りを行うということ

現代音楽とは言いながら、同時代の新しい音楽を聴くことはとても難しいことのように映る。ここで言う新しい音楽とは、単純に鮮度を指す。現代にはどこか、一過性やハプニングを重んじるきらいがある。食べ損なっても腐るから保存しないのだ。それは彼らの言う消費社会への反発なのか知らない。だが私達には、大量生産されるモノでも愛着を持って捨てられないものがある。大量生産・大量消費を嘆いて作らないのではなく、それらとは無縁のところにあるスケールのものをまずは作ってみろ、ということだ。形(CD)のない今は、ふと思いついたことを忘れないために、傍らの紙切れやペンを無視してコンピュータを立ち上げているようなものだ。できごとを自分だけのものにするのは簡単だが、私達は残念ながらそれだけには興味を覚えない。コンピュータで作った音楽を人間に演奏させる楽しみのように、コンサート会場でのできごとを形にして軋みを楽しむ。この謂わば反物質的な社会に、細部にこだわったかさばるモノを作る。時代錯誤な、それでいて同時代性を持つ。あらゆる矛盾を孕んだ、それがSteinhandの活動である。
(金子雄樹)

現代音楽のレーベルを作りたいと思った。現代音楽、つまりあの、シュトックハウゼンやクセナキスやタケミツの音楽がそういうカテゴリーで呼ばれるという意味で。ただし、それは彼らと似たようなスタイルで作られた音楽ということを意味しているのではない。そうではなく彼らと同様、採算や因習に捕らわれず、作家が本当に作らずにはいられないもの、今現在作るべきものを作ったら一体どうなってしまうのか?を試す場としてである。そもそも現代音楽とCDとは、音楽なのに、相性が悪い。古典的なクラシックやジャズなどと同様「本当はライブで聴くもの」をパッケージメディアとし保存したという印象が強いからである。それは一方で事実だと認めてもよいが、逆にパッケージメディアとして提示することによってのみ生まれる積極的な可能性に期待し、追求したいと考えたからこそSteinhandは生まれた。音波情報だけならネットからダウンロードできる時代である。音楽の体験において決して欠かすことのできないもの:作品の持つ雰囲気、必要な情報、直感的な感触、作者への、そして聴いてくれる人への信頼と敬意、それらを現代社会の商品にするという、ある意味で矛盾したこの作業こそ、このレーベルが存在する意味である。Steinhandは古くて新しい表現の形式である。
(三輪眞弘)

Steinhandは、現代音楽のレーベルである。現代音楽とは要するに「作曲家の音楽」である。「作曲家→演奏 家→聴衆」という幸福な共同体は、複製メディアの出現によって消えた。いったんメディアに記録されれば、全ては単なるサウンドとして等価な情報にすぎなくなるからだ。誰が作曲したものであろうと、聴く側は結果としてのサウンドで判断するほかない。
ロックやジャズは、演奏家のアウラによって、極端に言えば技芸を見せつけるスポーツとして、商品価値をつり上げる戦略をとってきた。たとえばポップスにおけるカバー・ヴァ−ジョンはその象徴だ。カバーとは「作曲家が」自作を編曲するという行為とは根本的に違い、「演奏家が」既成曲を自分モードに変換する作業である。また、伝統芸能としてのクラシックというジャンルも同じ意味で要するに「演奏家の音楽」なのであり、いまだに18-19世紀の音楽がレパートリーの大半を占めているのは、音楽の主体が作曲家ではなく演奏家にある事のあらわれだ。
しかし、こうした「演奏家のアウラ」も無論、幻想にすぎない。コンサートから撤退したグレン・グールドから本人は一切ステージに姿を現さない「コンサート」を上演する池田亮司まで、全てはサウンドにすぎない事に自覚的な音楽家なら誰でもわかること だ。アメリカで最初にディスコが流行しはじめた時、ミュージシャンたちは「ディスコ・ミュージックはダンスのための道具にすぎない、あんなものは音楽ではない」と激しく反発し、反ディスコ・キャンペーンを展開したが、その結果は現在のDJカルチャー隆盛をみればわかる通り。演奏家など存在しなくてもごぎげんな音楽、いやサウンドさえあれば、クラウドは踊るのだ。
今日、街のCDショップをのぞいてちょっとでも試聴してみれば、実に様々なエレクトリック・ミュージックが各国のインディペンデント・レーベルからリリースされている事がわかるだろう。テクノ、ミニマル、音響などと括られるそれらの音楽の多くは、楽 器の演奏によってではなく機器の操作によってつくられた「サウンド」だ。「作曲」でも「演奏」でもなく、結果としてのサウンドを「プロデュース」するためのマニピュレーション技術こそがそれぞれの作品に個性を与える。こうした匿名的サウンドが無数 のCDという情報空間に格納されている様子は、インターネットのWEBサイトに様々な情報や作品が格納されていつでもどこでもアクセスできる状態に、どこか似ている。壊れた共同体にも、壊れたアウラにも言及する必要なく、ただただそこに存在する「サウンド」。結果的には、過去の電子音楽や具体音楽や音群音楽や反復音楽にきわめて近く聴こえたとしても、それらは現代音楽とは やはり異質なものだ。
こうした時代に、あえて作曲家として音楽を提案すること。作曲家という設計技師にしかつくれない虚構の建物をあえて建てること。共同体の壊れた後の世界に、アウラの復権をめざす音楽原理主義者としてでもなく、サウンドの力のみを頼りにする音響平等主義者としてでもなく、あえて作曲家を名乗ること。
Steinhandは、作曲家のレーベルである。
(ヲノサトル)